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コラム6:コラム6:秋田方言とアイヌ語は言い回しが似ている?秋田弁とアイヌ語の表現形式上の類似性について

コラム6:秋田方言とアイヌ語は言い回しが似ている?秋田弁とアイヌ語の表現形式上の類似性について2024.3.10追記有り

 みなさんこんばんは。齶田浦蝦夷です。

 

 

 今日はちょっとした気の迷いで、前々から気になってた秋田弁とアイヌ語の表現方法における
類似点について書いてみました。

 

 

 前々から書こうとは思っていましたが、めんどくさそうだなと思って先延ばしにしていたものの、
ようやく今日書き上げられてややもやもやが腫れた感があります。ふぅ…疲れたぜ。

 

 秋田弁・秋田方言(並びに東北弁・東北方言)とアイヌ語は、言語学的に全くの別言語であり、語彙の面でも若干の借用が認められる程度(主に東北方言からアイヌ語への借用と思しきものが多く(特に輸入品)、東北方言においてはアイヌ語の残存ないし借用語は2,3語あるかどうか程度)のであり、世間の俗説の中で言われているほど両者の関係が深くないことについては、今までのコラムでもあれこれ説明してきた通りである。

 

 しかしながらその一方で、秋田弁の勉強をしていると、どうにも世間一般の日本語の表現としては奇妙な独特な言い回しというのが見られ、そしてそういった表現に限って、往々にしてアイヌ語と表現形式が被る傾向があるということを最近感じ始めてもいる。

 

 というわけで、私が個人的に秋田弁を見聞きしてきた中で「これってアイヌ語的な言い回しだよなぁ」と思った表現を今回は指摘していきたいと思う。

 

 先に結論だけ言っておくと、以下の四つである。

1.秋田弁でもアイヌ語でも、「子供を持つ」が「子供を産む」という動作を表す言葉になる

2.秋田弁でもアイヌ語でも、「~すればいい。」は提案ではなく命令「~しなさい。」の意味

3.秋田弁もアイヌ語も、「『オノマトペ』+『言う』」で擬声語・擬態語を作る。

4.秋田方言でもアイヌ語でも、「姉である人」「兄である人」のような、「続柄+である+人」という独特な言い回しの表現が見られる。

5.秋田弁でもアイヌ語でも、譲歩「~としても」は逆接「~けれども」の意味にも使われる。(5以降は2024.3.10)

6.秋田方言もアイヌ語も、「もの」を表す形式名詞が逆接「のに」の意味を兼ねる。

7.秋田弁もアイヌ語も、「捨てる」は「投げる」という動詞を以て表現する。

 

 

1.秋田弁でもアイヌ語でも、「子供を持つ」が「子供を産む」という動作を表す言葉になる。

 秋田弁において、「子供持づ」とか「子供三人持った。」といったような表現が古老の間で聞かれる。

 

 普通の日本語話者であれば、こういった表現を聞くと違和感を覚えるだろうが、実はこの「持づ」、意味は「産む」である。

 

 つまり、「子供持づ」なら「子供を産む」という意味であり、「子供三人持った。」なら、「子供を三人産んだ。」の意味である。

 

 更に言えば、古い秋田方言の言い回しで「わらしもぢする」という言葉があるが、これは「出産する」という意味である。

 

語源を説明すると、「わらし」は伝統的な秋田弁における「子供」を意味する言葉(今時は普通は使わない。)、「もぢ」は「もづ」の連用形である。つまり「わらしもぢする」とは「子供産みする」という意味、すなわち「出産する」という意味の動詞なのである。

 

 更に「もづ」という言葉について説明するなら、鶏などが「たまこ゚もづ」という表現も古老の間で聞かれる。これは、すでに察していると思うが、「卵を産む」の意味である。

 

 まぁ要するに、秋田弁の「もづ」には、標準語通りの「~を所有する」「~を手に持つ」という意味での「持つ」の他に、更に動作としての「子供や卵などを産む」という意味があるわけである。

 

 というわけで散々秋田弁の「もづ」についての説明をしてきたわけだが、実は北の方に目をやると、アイヌ語においても似たような表現が見られる。

 

 アイヌ語において、「~を所有する」「~を手に持つ」という意味で使われる最もポピュラーな言葉は「コㇿ[kor]」という動詞である。

 

 それは例えば、「タン クㇽ マキㇼ コㇿ。[tan kur makir kor.]」と言えば「この人はマキリを所有している。」という意味になるし、「タン クㇽ マキㇼ コㇿ ワ エㇰ。[tan kur makir kor wa ek.]」と言えば「この人がマキリを持ってくる」という意味になる、といった具合である。

 

 しかしながら、アイヌ語のこの「コㇿ」には、「~(子供や卵)を産む」という動作を表す動詞としての意味も存在している。

 

 例えば「タン メノコ ヘカチ コㇿ。[tan menoko hekaci kor.]」と言えば「このメノコ[=女性]は子供を産んだ。」という意味になるし、「タン メノコ マッカチ コㇿ。[tan menoko matkacikor..]」と言えば「この女性は娘を産んだ。」という意味になる。

 

 更に言えば「ポコㇿ[pokor]」と言えばこの一語で「子を産む」の意味になるし、鳥などが卵を産むことなども、「タン チカㇷ゚ タマンコ コㇿ。[tan cikap tamanko kor.]」で「この鳥は卵を産んだ。」という意味になる(「タマンコ」は日本語「卵」からの借用。伝統的なアイヌ語では「ノㇰ[nok]」という。

 

 まぁ要するに、秋田弁でもアイヌ語でも、「持つ」を表す動詞が、同時に「子供や卵を産む」、という動作を表す単語として機能しているわけである。

2.秋田弁でもアイヌ語でも、「~すればいい。」は提案ではなく命令「~しなさい。」の意味。

 秋田弁において、古老が「~すればい。」という場合は要注意である。というのも、実は標準語の提案「~すればいい。」とは違い、古老の秋田弁における「~すればい。」は、相手の事情など一切気にもかけないただの命令表現なのである。

 

 例えを挙げよう。以前、私の祖母が生きていた頃、私が白湯を作って自分の水筒にぶち込もうとしている最中に、居間で寝そべりながら祖母はこう私に言い放った。「ゆっこポットさ入れればい。因みにポットは祖母の寝ている炬燵のテーブルの上にあるポットのこと。

 

 「ゆっこ」は「お湯」のこと。つまり私が沸かしたお湯である。水筒に入れるために沸かしたお湯である。それを自分の近くに置いてあるポットに「入れればい。」と言い放ったわけである。

 

 ご理解いただけただろうか?つまりこれは提案ではない「お湯を(私の側にある)ポットに入れなさい(私が飲みたいから)。」という無慈悲な命令なのである。

 

 更に例を挙げよう。祖母は基本的に足が悪く、年から年中居間に寝そべっている人であったのだが、ある日、唐突に私にこう言い放った。「新聞こさもってこばい。と。

 

 お分かりいただけただろうか。これはつまり「(私新聞読みたいから)新聞をこちらに盛って来なさい。」という意味である。私には何のメリットもない。ただ自分の都合に合わせて「新聞持って来い」と言い放っただけの言葉である。「~すればい。」などという言葉通りの意味合いとはかけ離れた、命令表現であることは明白である。提案でもなんでもない。

 

 とまぁ、そんな「~すればいい。」という相手のことを思いやった気づかいに溢れた助言かと思いきや実は単なる無慈悲な命令でしかないというわけのわからないこの秋田弁の命令形式だが、アイヌ語にも、ある。

 

 すなわち、「~ヤㇰ ピㇼカ。[~yak pirka.]である。これは文字面だけで直訳すると、「ヤㇰ」=「~すると。~すれば。」、「ピㇼカ[pirka]」=「いい。よい。」なので、直訳すると「~するとよい、」「~すればいい。」である。

 

 が、これは罠である。アイヌ語における「~ヤㇰ ピㇼカ」とはただの命令表現の一種にすぎない。

 

 「ワッカ エ-コㇿ ワ エ-エク ヤㇰ ピㇼカ ナ[wakka e-kor wa e-ek yak pirka na]。と言えば、「ワッカ[=水]を持ってきなさいよ。」という意味になるし、「ワッカ タンペ オㇿ エ-オマレ ヤㇰ ピㇼカ。[wakka tanpe or e-omare yak pirka.]」などと言えば「水をこれの中に入れなさい。」という意味になる。

 

 提案などではない。アイヌ語でも「~すればいい。」と直訳されうる「ヤㇰ ピㇼカ」は、実は命令表現なのである。

 

 とまぁこんな感じで、秋田弁にせよアイヌ語にせよ、標準語における「~すればいい。」という提案っぽい表現は、実は普通に命令の意味になるというよくわからない表現形式が同じなのである。

 

 なお、秋田弁の「~すればい。」の場合は、言い切りじゃない場合は一応はちゃんと提案になる。「ゆっこポットさ入れればいあんでねぁ?」なら「お湯をポットに入れればいいんじゃない?」の意味になるし、「新聞こさ持ってこばいべ。」なら「新聞をここに持ってくればいいだろう。」と言った具合である。

 

 アイヌ語の場合は命令の意味から変更はなかったはずだが。この辺は秋田弁とアイヌ語とで違いがあるとも言えよう。

3.秋田弁もアイヌ語も、「『オノマトペ』+『言う』」で擬声語・擬態語を作る。

 秋田弁の擬声語・擬態語は、標準語でも使われる「どぎどぎする」「どぎどぎど」などの他、秋田弁独自の用法として、「どぎどぎでぁ」「どぎどぎってる」と言う表現形式がある

 

 「どぎどぎでぁ」は「どきどきした状態である」という意味の形容詞で、我が家でこそ「オノマトペ+でぁ」の形を使っているが、実は人によっては「どぎどぎ-ぢ」とか「どぎどぎ-」とかとも言う

 

 つまり「擬声語・擬態語+ぢ/で/でぁ」で「擬声語・擬態語+な状態である。」という意味を表す形容詞を作り上げるわけである。「つるつるぢぐねぁ」「つるつるでぐなる」「ぴかぴかぢがった」「ぴかぴかでば」といった具合に、である。

 

 では、この「ぢ/で/でぁ」とはなんなのかという話なのだが、実は秋田弁のこの「ぢ/で/でぁ」は、もともとは「と言う」という動詞だったのが約まった挙句形容詞化したもの、と考えられているらしい(『方言学講座 第2巻』p165, 東条操監修,東京堂,1961年)。

 

 秋田方言の「擬声語・擬態語+ぢ/で/でぁ」という形式の語源についての定説は上述の通りなのだが、どのような経緯でそのような結論に達したかはいまいち不明瞭である。

 

ということでとりあえず私なりに説明してみようと思う。

 

まず「ぢ」とはすなわち「づ」である(伝統的な秋田弁では本来「ぢ」と「づ」に区別はない。今時は古老でも区別しているが。)。

 

「づ」とはすなわち「~っつー」が約まった形。秋田の昔話でよくある「昔あったもな。」が「昔あったっつーもんな」の約まった形であることを思い出せば、容易にわかることである。

 

 では「で」とはなにかというと、これもやはり「って」が約まった形なのである。秋田の昔話でよくある「昔あったぉん。」等が「昔あったってもの。」の略・訛りであることを考えると、やはりすぐに納得がいくのではなかろうか。

 

 では「でぁ」とはなにか?すまない。正直これはよくわからない。多分「~で」という表現形式が出来上がった後に誰かが語源を忘れて「でぁ」という発音をするようになったのが広まったのではなかろうか。

 

 では最後に、これが形容詞化したとはどういうことか?動詞が形容詞化するというのは、流石に説明に無理があるのでは?と標準語話者なら思うことだろう。

 

 しかし、しかしである。そこは秋田弁。実は秋田弁においては、たまに動詞を形容詞化することがあるのである。

 

 我が家においては用例があまりに少なく、ただ一つ「飲むがった」という意味不明な一例があるのみで、一般化できそうもなかったから本テキストでは採用しなかったが、『語源探求 秋田方言辞典』(中山健編著、語源探求秋田方言辞典刊行委員会発行、平成13年)を見てみると、形容詞化した動詞という謎の表現形式が昔は存在していたことが確認できる。

 

 例えば同書p375の「がら」の項目に、「行グガラ、早グ 行ゲ」という例文があるし、p433の「ぐ」の項目には、「一人デ 立デル ナッタ」「オメァナド オレナド 似デルネァガ」、p329の「がった・がっけ」の項目には「…(略)柴取リシテ、ソヤシテ 集メデ 居ルガタオナ」「ゼンコ゚ノ 人ダ (中略) 皆 出ハテ来ルガッタ」等とある。

 

 これらの例文は、私の知る祖母の秋田弁に翻訳すれば、それぞれ「行ぐンだら、早えぁぐ行げ」「一人ンで 立でるえに なった」「お前ぁのなど 俺のなど ねぁが」、「柴取りして、して 集べで であったおな」「田舎の 人がだ (中略) んな 出はっててあった」といったところだろう。因みに最後の「田舎」と言い換えた「ゼンコ゚」とは若い世代で秋田弁の単語を知っている人なら「じゃんこ゚」と言うところ、古老なら「ぜぁこ゚」と言うところの言葉、すなわち「在郷」=「田舎」の意の秋田方言である。今はあまり使わない。

 

 まぁなにはともあれ、今でこそあまり使わないが、今よりももっと古い時代においては、伝統的な秋田方言ではこういった動詞を形容詞化する表現というのが割とよく使われていた、ということなのだろう。

 

 まぁともあれ、そんな事情で、「擬声語・擬態語+ぢ/で/でぁ」という形容詞の大元が「~って言う」であった可能性はなんらおかしな説ではないのである。

 

 そして、この説を更に裏付けてしまう表現が今でも残っている。すなわち、比較的若い世代でもたまに使われる「どぎどぎってる」などの「擬声語・擬態語+ってる」という表現形式である。

 

 これは、標準語に訳す時は、「どきどぎってる」「つるつるってる」「びぐびぐってる」などで「どきどきしている」「つるつるしている」「びくびくしている」等と「している」と訳しうるものなのだが、語源的には「って言ってる」を略したものと考えた方が妥当である。

 

 というのも、秋田弁においては、「~って言っ」という表現は広く「~っ」に略されるからである。

 

 例えば、「あれも行ぐた。」と言えば「あれも行ぐって言った。」の略だし、「あれも行ぐてった。」と言えば「あれも行ぐって言って行った。」の略だし、「あれも行ぐてあった。」と言えば「あれも行ぐって言ってあった。」の略だし、とかく「っ」とは「って言っ」の略として広く秋田弁として使われているのである(2023年現在、90を超える年齢の古老も、60代以下の比較的若い秋田弁話者も共通。なお秋田では高齢化が進み過ぎて60代くらいでは高齢者扱いし辛かったりする。なんなら30代ですら若者扱いである。)。

 

 となればこの「~ってる」とはなにかというと、直訳すれば「~って言っている」となるのが道理だろう。逆に「している」が「ってる」になる例など存在しない。

 

 …とまぁこんな感じで、秋田弁においては、オノマトペ、すなわち擬声語・擬態語の表現を作成する際には「言う」の変化した形を使うのが秋田弁の独自表現法として遍く存在するわけである。

 

 さて、ここまでが我が故郷たる秋田方言における擬声語・擬態語の実態なわけであるが、ではアイヌ語の方はどうなのかというと、やはり似た形式がよく使われる。

 

 すなわち、「擬声語・擬態語+セ[-se]」という表現形式である。「セ」は「~と言う」という意味の、擬声語・擬態語の動詞を作る時の特殊な語である。

 

 今、その例を『アイヌ語法概説』(金田一京助・知里真志保共著,岩波書店,1936年,P118~119)からいくつかピックアップしていくと、

 

 

 

アヤイ-[ayai-se] アヤイ=アイアイ あいあい泣く

オヨイ-[oyoi-se] オヨイ=オイオイ おいおい泣く

カㇻカㇻ-[karkar-se] ころころ転がる

タㇰタㇰ-[taktak-se] まるまるしている

 

 

 

などといくらでも例がある。

 

もっとも、アイヌ語における擬声語・擬態語の表現は「セ」を用いたものの他にも、「ケ」だの「コサヌ/コサンパ」だの「ロトト/ロトッケ」だの「アッキ」だの、またまた「ナタラ/イタラ」だのと腐るほどあるのだが(しかも意味合いがそれぞれ異なるのがまた恐ろしい)

いずれにせよ、秋田弁においてもアイヌ語においても、「擬声語・擬態語+と言う」という表現形式で擬声語・擬態語を表現することができるというわけである。

4.秋田方言でもアイヌ語でも、「姉である人」「兄である人」のような、「続柄+である+人」という独特な言い回しの表現が見られる。

 普通、自分の家の姉にせよ兄にせよ親戚にせよなんにせよ、姉なら「姉」、兄なら「兄」、親戚なら「親戚」と、ただその続柄を言えばいいだけの話、というのが標準語における普通の言い回しだろうが、秋田弁においてはこの辺りで古老以外には使うことのない奇妙な言い回しがある。

 

 すなわち、だれかの家の事情とかを説明したり、昔話である家の構成員の行動等について述べる際などに「続柄+ンだ+人」という表現が見られることである。

 

 例を挙げよう。私の祖母が喋ったものとしては、「それさあねンだ人…[それに、姉である人は…]」「おばーちゃんの親戚ンだ人…[お婆ちゃんの親戚である人が…]」「おかーさんだ人…[お母さんである人が…]」の三例がある。

 

 また、『秋田むがしこ 第二集』(今村義孝・今村泰子編,未来社,1966年)を見るに、「親だ人(p125)」、「お母[か]さんだ人(p138)、「夫だ人」「嬶[かが]だ人」(p154)、「嬶[かかあ]だ人(p296)」等等、やはり同じく「続柄ンだ人」という独特な言い回しが見受けられる。

 

いずれも若い世代なら「ねーさん」「親戚」「おがーさん」「親」「おがーさん」「旦那」「かが/よめ」などと「ンだ人」の部分を省き、かつ「あね」だの「あに」だの「おっと」といった文語的な言い回しは方言の「ねーさん」「にーさん」「旦那さん」という口語的な言い回しに変えて言うのが普通である。

 

だが、古老は誰かの家の人について説明したり、散文的に叙述したりする時にはこういう独特な言い回しをすることがある。敢えてニュアンスを言うなら、「続柄ンだ人」とは「続柄にあたる人」といった意味合いであろうか?

 

ともあれ、こういう妙な言い回しというのは、実は日本語的には奇妙でも、アイヌ語の中では割とよく見られる表現である。

 

すなわち、アイヌ語には、「イ-続柄-ネ クㇽ[i-続柄-ne kur]」という言い回しが存在するのである。「イ-続柄-ネ」は「(漠然としたもの)-続柄-である」という意味、「クㇽ」は「人」の意の形式名詞。

 

例えば、「イ-オナ-ネ クㇽ」といえば、「オナ」は「父」なので、「父親である人」という意味になるし、「イ-ウヌ-ネ クㇽ」といえば「ウヌ」は「母」なので、「母親である人」の意味になる。

 

同じ理屈で「イ-ユㇷ゚-ネ クㇽ」「イ-アㇰ-ネ クㇽ」「イ-ポ-ネ クㇽ」と言えば「ユㇷ゚」は「兄」、「アㇰ」は「弟」、「ポ」は「息子」なので「兄である人」「弟である人」「息子である人」という意味で使われるし、「イ-サ-ネ ㇷ゚」「イ-マタㇰ-ネ ㇷ゚」「イ-トゥレㇱ-ネ ㇷ゚」「イ-マッネポ-ネ ㇷ゚」は、「サ」は「姉」、「マタㇰ」「トゥレㇱ」は「妹」、「マッネポ」は「娘」で、「ㇷ゚」は「者」という意味の形式名詞なので、それぞれ「姉である者」「妹である者」「妹である者」「娘である者」という意味である。

 

 因みに「イ-オッカヨ-ネ クㇽ」「イ-マッ-ネ クㇽ」の場合は少し特殊で、「オッカヨ」は「男」、「マッ」は「女」なのだが、意味は「旦那さんである人」「奥さんである人」になる。

 

なんで男の場合は「クㇽ」なのに姉や妹などのうら若い女性の場合は「ㇷ゚」を使うのかは多分昔の男尊女卑的なものがあるのだと思うが、いずれにせよ、やっていることは「~ンだ人」と同じと言えよう。

 

 因みにアイヌ語の「イ-続柄-ネ」は、秋田弁と違い、必ずしも後ろに「クㇽ」「ㇷ゚」だけがくるわけではなく、例えば「ヒケ[~の方]」(実際の発音は「イケ」になる)を後ろにつけて「イ-ユㇷ゚-ネ イケ」「イ-アㇰ-ネ イケ」「イ-ポ-ネ イケ」「イ-サ-ネ イケ」「イ-マタㇰ-ネ イケ」「イ-トゥレㇱ-ネ イケ」「イ-マッネポ-ネ イケ」で「兄である方」「弟である方」「息子である方」「姉である方」「妹である方」「妹である方」「娘である方」などとも言える。

 

 アイヌ語の方が用法が広いと言えるのかもしれない。なお、アイヌ語でも日常会話で自分や相手の兄弟を上のような表現で言うことは普通はない(説明的な文章なら使うようだが)。

 

 普通の口語なら、「クミチ[私の父さん]、「エコㇿ ミチ[あなたの父さん]」、「クコㇿ ハポ[私の母さん]、「エコㇿ ハポ[あなたの母さん]」、クサハ[私の姉さん]、エサハ[あなたの姉さん]、クユピ[私の兄さん]、エユピ[あなたの兄さん]、クアキ[私の弟]、エアキ[あなたの弟]、クマタキ/クマタパ/クトゥレシ[私の妹]云々と、まぁざっくりいうと「だれそれの続柄」という形で使われるわけである。

 

 さて、話は脱線したが結論から言うと、秋田方言もアイヌ語も、なんか散文的な文章表現において「兄は…」「姉は…」のような「続柄は…」と言いたいときは「続柄である人」という、ちょっと変わった言い回しをする傾向が見られる、ということである。

5.秋田弁でもアイヌ語でも、譲歩「~としても」は逆接「~けれども」の意味にも使われる。

以下、2024.3.10追記分。

 

 秋田弁では、譲歩の接続助詞に「~たって」があり、これが標準語の「(たとえ)~としても」に当たる譲歩の表現である。
だが秋田弁の「~たって」には、このほかに「~けれども」という逆接の助動詞としての意味もある

 

 たとえば、標準語の「私が死んたとしても、お前が生きているならそれでいいんだ。」という文は、
 秋田弁なら「俺死んだたって、んめぁ生ぎでるごったらそえンでいあんだ。」と言うし、
 標準語の「今日は天気はいいけれども、どうしてだか寒いなぁ。」という文は、
 秋田弁では「今日ンだば天気ンだばいたって、なしてンだが寒びごど。」と言う。

 

 見ての通り、「たって」という言葉が、「~としても」という譲歩の意味の他に、「けれども」というただの逆接の接続詞としても機能するわけである。

 

 が、これと同じ現象はアイヌ語でも見られる。すなわち、アイヌ語の譲歩の接続助詞「ヤㇰカ[yakka]」は、やはり逆接の「~けれども」の意味を兼ねるのである

 

 具体的に言うと、例えば先ほどの、標準語の「私が死んたとしても、お前が生きているならそれでいいんだ。」という文は、
 アイヌ語なら「ク-ラィ ヤㇰカ エ-シㇰヌ ヤㇰネ、タンペ ポカ ピㇼカ ルウェ ネ。[ku-ray yakka,e-siknu yakne, tanpe poka pirka ruwe ne.]」と言うし、
 標準語の「今日は天気はいいけれども、どうしてだか寒いなぁ。」という文は、
 アイヌ語では「タント シㇼピㇼカ ヤㇰカ、ネㇷ゚ ネ ルウェ ネ ヤ ク-メライケ フミー。[tanto sirpirka yakka, nep ne ruwe ne ya ku-merayke humi!」と言う。

 

 要するに、標準語の譲歩「~としても」と逆接「~けれども」に当たる表現が、秋田弁では「たって」の一語で言い表せるし、アイヌ語でも「ヤㇰカ[yakka」の一語で言い表せるというわけである。

 

 この辺も、秋田弁、アイヌ語両方を知っていると、自然過ぎてうっかり見落としてしまう項目と言える。

6.秋田方言もアイヌ語も、「もの」を表す形式名詞が逆接「のに」の意味を兼ねる

標準語では、「美味しいもの」とか、「綺麗なもの」とかの「もの」という言葉と逆接の「~のに」は別の言葉で言い表しているが、秋田弁の場合は、どちらも「あじ」の一語を以て言い表すことができる(秋田弁の中でも地域差はある。市内の古老の秋田弁ならこうなるということ)

 

 たとえば、標準語で「美味しいものを食べたいなぁ。」という文は、
 秋田弁では「美味しあじ食ってぁなー。」と言うし、
 標準語で「今やっと会えたのに、もう行くのか?」は
 秋田弁では「今やっとごさ会にいがったあじ、あど行ぐなが?となる。

 

 つまり秋田弁の「あじ」は、標準語の「~もの」と、逆接の「のに」のどちらの意味も兼ねているわけである

 

 同様の現象はやはりアイヌ語でも見られる。すなわち、アイヌ語で「~もの」を表す「ペ[pe]」は、同時に逆接「のに」の意味も表せるのである

 

 たとえば、標準語で「美味しいものを食べたいなぁ。」という文は、
 アイヌ語では「ケラアン  ケ ルスイ フミー。[keraan pe k-e rusuy humi.」と言うし、
 標準語で「今やっと会えたのに、もう行くのか?」は
 アイヌ語では「タㇷ゚ エアシㇼ ウヌカㇻ-アン ペ、タネ エ-アㇻパ シリ アン?[tap easir unukar-an pe, tane e-arpa siri an?]」といった感じに訳せる(日本語とアイヌ語は別言語のため、必ずしも言葉一つ一つが対応するわけじゃない。たとえば「会えた」の部分は、アイヌ語では普通「会った」と表現するのが自然なので、そのように訳出している)。

 

 すなわち、アイヌ語の「ペ[pe]」は、秋田弁の「あじ」と同じく、標準語の形式名詞「~もの」と逆接の接続助詞「~のに」のどちらの意味も兼ねているわけである。

7.秋田弁もアイヌ語も、「捨てる」は「投げる」という動詞を以て表現する。

秋田弁に限らず、東北方言では、ものを捨てることを以て「投け゚る」と言う。これはよく知られた話だと思うが、
実のところこの現象はアイヌ語でも同じである

 

 例えば、標準語の「彼は死んだ魚を犬へと投げた。」なら、アイヌ語なら「ライ チェㇷ゚ セタ エウン オスラ。[ray cep seta eun osura.]と言うし、
秋田弁では「あえ死んだ魚っこどご犬さ投け゚だ。」と言える。

 

 そして標準語の「彼は食べ物をゴミと一緒に捨てた。」なら、アイヌ語では「アエㇷ゚ ムン トゥラ オスラ。[aep mun tura osura.]」と言うし、
秋田弁では「あえ食うものゴミど一緒に投け゚だ。」となる。

 

 すなわち、標準語では「投げる」と「捨てる」は別の動作として扱われているのに対し、アイヌ語ではどちらも「オスラ[osura]」の一語を以て言い表すし、秋田弁を含む東北方言でもやはり「捨てる」も「投げる」も「なけ゚る」の一語で以て言い表すのが普通である。

 

 まぁもっとも、アイヌ語の場合は投げるは投げるでも槍を投げるのか、遠くに投げるのか、決まった場所に投げるのかで「オスラ[osura]」ではない「投げる」の言葉が存在しており(槍を投げるのは「エアチゥ[eaciw]」、遠くにぶん投げるのは「ヤㇺキㇼ[yamkir」だったはず)、それらに「捨てる」という意味はない。

 

 そして秋田弁においても、ものを「投け゚る」「捨てる」だけなら「なけ゚る」を以て表せばいいが、故郷を捨てるとか、親を捨てるとか、苗字を捨てる、といった物以外については「なけ゚る」と言わずに普通に「すてる」を使って表現するのが自然だったりもする(地域差はあるが。)ので、一概に秋田弁とアイヌ語の「投け゚る」=「オスラ」とも言い表せないのであるが

 終わりに

 以上、秋田方言とアイヌ語、その両方を勉強してきた身として、「なんかこの二つ似てるなぁ」と思っていた点について紹介してみたが、如何だったろうか。

 

 学術的な話をするなら、どうしてこの二つにこういう共通点ができたのかは、他の日本語の諸方言の表現形式についての理解も深めなければなんとも言えないというのが実情だろう。

 

 …が、単語面でも言語体系の面でも全然別物であるとは言いつつも、こういう変なところで共通した言い回しが見られるというのは、個人的に敢えて指摘したかったので今回そうさせてもらった。

 

 何故か?そもそもだれもこのことに気づいていない可能性があるからである。

 

 基本的に私の秋田方言に対する姿勢というのは、普段用いているあらゆる言葉をせめて今時の古老の秋田弁で話せるようになれば、という極めて網羅的な秋田方言の把握である。

 

 よって今回挙げたような話というのは、多分放っておくとマジで誰も気づかない。

 

「子供を産む」だの「~ばいい。」が実は命令だの、「オノマトペ」を使う際に「と言う」を使うだの、なんか散文的な文章では兄とか姉とかを「兄である人」「姉である人」と言う、などという指摘は、真っ当に学術的な言語分析をしている人達にとってはちょっとドマイナーが過ぎて注目項目にはなり得ない気がするのである。

 

 というわけで一応の指摘として、今回はこのような記事を書いておいた。この共通性にロマンを感じる人、面白みを感じた人、或いは学術的な興味を持つ人等が現れたなら幸いである。

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